原田甲斐邸四脚門(俗称「逆門」)の由来

 万治元年(一六五八)綱宗が伊達藩三代目を継ぐが、三年で隠居、当時二歳の亀千代が四代となる。幼少のため、藩内の実力者による後見人が藩政を担うが、後見人や奉行間での権力争いが勃発し、ついには寛文十一年の原田甲斐による刃傷事件がおこる。これがいわゆる伊達騒動と呼ばれ後世に伝えられている。事件後、後見政治は廃止され、成長した綱村のもとで伊達藩は落ち着きを取り戻していくが、多くの事件関係者は処罰され、特に原田甲斐一族の処罰は厳しく幼子までもが処刑された。そして甲斐ゆかりの全てのものは完全に破壊されたが、最後に一番堅牢な四脚門は唯一残された。巨木をはめ込み組み立てた四脚門は取り壊しにかかったものの、解体作業は難行し、人夫が不慮の事故で怪我をしたり、夭死するものさえ出たと伝えている。このため解体をとり止め焼却される事になったが、その晩から夜毎に子供の泣き声が聞えて来たという。おそらくは楔をはずしたために軋む音が泣き声に聞えたのかも知れない。当時、荘嚴寺の住職は名僧知僧として世に誉れ高く、伊達家の厚い信任を得ていた。この聖人はひそかに原田甲斐一門の迷える霊を供養して、唯一の名残である四脚門を荘嚴寺に「悪を善に転じて」移建することを進言して許され、これを逆さに移建したと伝えられている(平成6年の解体修理及び調査により、柱の上下左右の反対が確認された)。そのため世に「逆門」として言い伝えられ、原田甲斐一族の唯一の名残として現在に至っている。
弁天堂
本堂の西北部に烏帽子ヶ池あり。今は僅かにその名残を留めいるに過ぎないが、昔は烏帽子型の大池で、池岬に弁天堂があり、弁才天を祀っていた。後に火災により焼失したが、寶冠(翁面白蛇形)のみ焼失を免れ現存している。青葉城中の弁天堂に祀ってあったものを、藩主網村が此処に移したと伝えられる。
 

 

観音堂(仙台札所六番)

 三十三観音を安置する。(昨年代不明、丈一尺)仙台順禮三十三所中第六番の札所。
樹木